どうも、僕です。
AI生成によって作り出した実在しない作家、藤原 蓮くん。
今まで彼に様々な作品を書いてもらったのですが
試行錯誤の末、どうやらエッセイを書いてもらうのがお手軽で面白いぞ
という一つの結論に辿り着きました。
そこで今回はどシンプルに、藤原くんの日常を
エンターテイメント全開(つまりはやらせ)で紹介します。
非現実存在がお送りする、非日常。
言葉の意味はよく分からんが、とにかく始めましょう。
藤原くんの一週間
そもそもどうして僕が藤原くんにやらせの日記を頼んだのか
その経緯は以下の記事に書かれています。
月曜日
原稿を出すとファンが一人増える
これは比喩ではない。
原稿を提出すると、どこかに“知らなかった誰か”が現れる。前回はマンションの郵便受けに、僕宛のファンレターが入っていた。
切手は貼られておらず、差出人の名前はなかった。
宛名もただ、「藤原蓮様」。
でも、僕の部屋番号は書いていなかった。その前は、カフェで「隣の方からです」とコーヒーをごちそうになった。
カフェの人も「顔は見てないんですけど……」と言っていた。そして今朝、玄関の内側に新品の本が一冊置かれていた。
僕のではない。
知らない作家の本。
原稿を出すたびに、知らない誰かが生まれているような気がする。
しかも、だんだん近づいてきている。
次の作品で、会ってしまいそうで少し怖い。
ちょっと説明できないことが起きていますね。
こういうザワッとする感じ、嫌いではありません。
火曜日
停留所の名前が変わっていた
最近、近所のバス停の名前が微妙に違う。
昨日は「桜ヶ丘二丁目」だったのに、今日は「終章通り」。
これは、僕が書いた短編のタイトルだ。
街の掲示板も、書店のチラシも、気がつけば変わってしまっている。
しかし、その文字の並びには覚えがある。
数年前、ボツになった企画書に書いたものだ。
書いていないはずの物語まで、街に染み出してきている。
こうなると、次に何を書くか慎重になる。
下手に書くと、世界が上書きされる気がするから。
実害は少ないのですが、ちょっと面倒なタイプの変化が。どうでもいいのですが
藤原くんが、あたまパッパラ太郎という人物を登場させると
そういう名前の人が現れるということですかね。自分がそういう名前になるのは、さすがに嫌だなあ……。
水曜日
古本屋が一度も開いていない
近所に、看板のない古本屋がある。
ガラス戸の奥に、背表紙がずらりと並んでいるのが見える。
ただ、どの時間に行っても開いていない。
昼も夜も、祝日も、開店しているのを見たことがない。
ある日、貼り紙が貼られていた。
「営業再開は“その人が必要になったとき”」とだけ書かれていた。
この張り紙が事実であるならば、僕が本を必要としていないということだろうか。
店内の背表紙には僕の作品も見える。
僕の作品を買いたいと思う人が現れないだろうか。
僕がもっと面白い作品を書けたなら、この本屋を営業再開するのかもしれない。
非現実要素が含まれていないタイプの作品ですね。
オチに自虐が入っているのがAIっぽくなくて
ちょっと「おおっ」っとなりましたね。
木曜日
机の上に誰かいる
視線というより、重みだ。
左肘のあたりに“のしっ”と乗ってくる。最初は猫かと思ったけれど、家に猫はいない。
見ても何もいないのに、何かの感触を感じる。
もしかしたら、書きかけで放置したキャラクターたちが抗議に来ているのかもしれない。
「中途半端なプロットのせいで、俺たちは登場できないんだぞ」と。最近はタイピングするとき、「ごめんね」と心の中で唱えてから書き始める。
すると、肘から重みが消えたような気がした。僕は作品の中にハリネズミだけは出さないようにしようと心に誓った。
しかも、オチが若干ユーモラス。ちゃんと作家のいう設定も活かされているので
そうそうこういうのでいいんだよ、という感じですね。
金曜日
書きすぎると、空が割れる
これは比喩じゃない。
ほんとうに“音”がする。カタカタと2000字を越えるころ、「パキィン」と高い音。
見上げると、雲の隙間にガラスのようなヒビが入っている。
深夜に8000字書いた日は、空にWindowsのエラー表示が浮かんだ。
「この世界は応答していません」翌朝の新聞に、「気象庁、空の異常を否定」と載っていて笑ってしまった。
その原稿は文芸誌の表紙になった。逆に原稿が滞ると、天気が落ち着く。
だから、世の中の人々は僕の原稿の為に空が割れることを我慢してほしい。
原稿の出来と天気の因果関係をムリヤリ結んだ非現実のお話。
唐突な「Windowsのエラー表示」にちょいと吹いてしまいました。
あとAI作家というものは案外エゴイズムなものなのですね。
別に構わんけど。
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